扉・建具の歴史
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扉・建具の歴史
- Date
- 2006-12-12 (火)
- Category
- 扉・建具の歴史
最古の建具
遺跡から発掘されたもの
昭和25年 伊豆山木遺跡から縦60.6cm横47.6cm厚さ3.9cmの柾板の片側長辺に直径3cm長さ10~13cmの軸釣とみられる作り出しがあり、これを扉口に設けられた軸受けに立て込み回転するようにした日本最古の扉とみられている。
また家形埴輪には上記の扉軸受けとみられる穴があるものも(美園古墳出土等)存在し後の蔀戸の前身とみられる水平軸によって開閉する扉も奈良県佐見田古墳から出た家屋文鏡に描かれています。
現存する最古の建具
現存する最古の建築といえば斑鳩の法隆寺の 金堂ですが 昭和大修理の火災によって焼損した結果 現在の扉は その焼損部分を挽き落とし 二枚を張り合わせて一枚の扉としたもので当時の材料(高さ約3m 幅約1m 厚さ約10cmの桧の節無しの一枚板で 反ったり曲がったりという狂いはまったく無かった)を使っているとは言え最古の建具とは言い難い。
若干時代は下りますが、隣接する法隆寺金堂裳階の四面の扉は奈良時代に作られたものといわれており高さ約2.7m幅約1m厚さ約8.5cmの大きさで部には唄(ばい・金銅飾り金具)を四列四行に打ち、上部には連子窓を設けています。
この連子窓の九本の連子は普通の連子窓のように木を枠に組み込んだのではなく、実は一枚板の扉から彫り出したものです。
遺跡から発掘されたもの
昭和25年 伊豆山木遺跡から縦60.6cm横47.6cm厚さ3.9cmの柾板の片側長辺に直径3cm長さ10~13cmの軸釣とみられる作り出しがあり、これを扉口に設けられた軸受けに立て込み回転するようにした日本最古の扉とみられている。
また家形埴輪には上記の扉軸受けとみられる穴があるものも(美園古墳出土等)存在し後の蔀戸の前身とみられる水平軸によって開閉する扉も 奈良県佐見田古墳から出た家屋文鏡に描かれています。
現存する最古の建具
現存する最古の建築といえば斑鳩の法隆寺の 金堂ですが 昭和大修理の火災によって焼損した結果 現在の扉は その焼損部分を挽き落とし 二枚を張り合わせて一枚の扉としたもので当時の材料(高さ約3m 幅約1m 厚さ約10cmの桧の節無しの一枚板で 反ったり曲がったりという狂いはまったく無かった)を使っているとは言え最古の建具とは言い難い。
若干時代は下りますが、隣接する法隆寺金堂裳階の四面の扉は奈良時代に作られたものといわれており高さ約2.7m幅約1m厚さ約8.5cmの大きさで 部には唄(ばい・金銅飾り金具)を四列四行に打ち、上部には連子窓を設けています。
この連子窓の九本の連子は普通の連子窓のように木を枠に組み込んだのではなく、実は一枚板の扉から彫り出したものです。
奈良時代の建具
奈良時代の扉
栄山寺八角円堂の扉は 両開きの出合定規が付いているように見えますが、あとで打ち付けたのではなく 分厚い板から削りだしたものであることが分かっています。
扉の厚さが約7.5cm定規の見込寸法約4.5cmから考えるとこの扉の材料は少なくとも厚さ約12cm以上必要になり板のほぼ全面を削り取る加工手間を考えると大変無駄とも言える仕事であったようです。
このように過去一枚板からの削り出しから扉を造っていたようですが、材料の手配また加工の困難さから薄い板又幅の狭い板を使う扉も出現してきています。
唐招堤寺金堂の扉は幅の狭い五枚の板を縦に並べ裏桟に釘止めしたもので扉の表面に出た釘の頭を隠すために唄(ばい)という飾り金具ここでは饅頭型の木製漆箔「金具」を付けまた扉全体の変形防止に金銅八双金具を取付けている。
このような建具を「板桟戸」と呼ぶが東大寺大仏殿も創建当時はこの形式の扉を使っていたことが「信貴山縁起」等で解ります。
また一枚板と板桟戸の中間的手法として二枚の板を接ぎ合わせ裏桟の代り扉上下に「端喰(はしばみ)」という細長い台形の横板をいれて板を固定するのがあります。
この手法で作られた奈良時代の扉は現存していませんが、この時代行以降広く用いられた典型的扉手法です。
奈良時代の住宅の建具
法隆寺伝法堂は天平十一年(739)頃に橘夫人が寄進した住宅が元であり平面計画をみると桁行き三間 梁行き四間の壁と扉で閉ざされた部分桁行き二間の開放的な部分そして広い簀子敷と三つの空間からなり土間床ではなく板敷きであった。
また空間を仕切るものとして壁と扉しかなくまた内部間仕切りの無かったことも重要な特質です。
もう一つの例は「正倉院文書」にみられる藤原豊成の板殿です。近江紫香楽(滋賀県信楽)に建設された豊成の住宅を天平宝字六年(762)石山寺が買い取って食堂に改築した際にその部材を数えあげた文書が作成されており、復元の姿は必ずしも一つではありませんが
関野克氏の復原によれば平面は桁行き五間梁行き三間で壁と連子窓と扉で囲われた部分と前後の広い開放的な部分とからなり、ともに板敷きである。
ほとんど伝統的在来工法によっている中で「閾(しきい)・鼠走・方立(ほうだて)・扉」からなる扉口や連子窓つまり開口部にのみ大陸的な技術が使われていることは開口部を造る伝統的技術を持っていなかったことを 示すものである。
上記の事例において建具は共通して扉それも大陸伝来の技術による扉のみである点から当時の貴族住宅において扉形式が一般的な開口装置であろう。
平安時代の建具
平安時代に建てられた寝殿造りの遺構は一つも現存していません。
しかし、その様子は京都御所紫宸殿と清涼殿(江戸時代に建設された)にうかがうことができます。
これは、紫宸殿と清涼殿が復原される際に、裏松固禅の「大内裏図考証」を典拠としたため外観は江戸時代的な意匠ですが、間取は平安時代後期の形式を再現しています。
平安宮内裏の正殿である紫宸殿は正面九間の母屋(身舎)の四方に庇を付加した間取である。
外周りの建具は、四隅と北庇中央に妻戸(はしばみ戸)を開くほか、柱と柱の間に一枚の大きな「格子」(蔀)を設け、昼間は内側上方へ釣り上げている。
内部では母屋と北庇の境に固定式のパネルとも言える「賢聖障子(けんじょうのしょうじ)」を設置し また母屋と西庇の間は壁で閉鎖している。
これ以外に間仕切はないので、母屋と南庇・東庇は大きな空間となっていた。
また清涼殿は天皇が居住する施設であり日常生活の都合で細かく間仕切されているが、建具の使用状況は紫宸殿とよく似ており、側面と塗籠に妻戸を設け、周囲は格子を釣っていた。
ただし格子は紫宸殿とは逆に外側へ釣り上げる。
このほか東孫庇の見通しを避ける為「昆明池障子」や「荒海障子」という障子を設ける。
また殿上の間の戸口の前に同様の「年中行事障子」を設けることも 一種の仕切といえる。
奈良時代の住居には無かった「格子」(蔀)が使用されまた現在の「障子」とは意味も実体も全く異なっている。